昨今、学内外を問わず、大学業界では「危機感」という言葉が多用されています。業界雑誌を見ても「危機感」、説明会やセミナーでも挨拶代わりに「危機感」、大学のお偉方も口を開けば「危機感」、まるで大学業界全体で「危機感キャンペーン」でも展開しているのではないかと思うほどです。
しかしながら、この「危機感」という言葉について、どのような危機なのか?という問いを投げかけると、口ごもってしまう大学関係者も多いのではないかと思うのです。危機感という言葉は多用するけれども、危機の中身について具体的に考えたことはない。せいぜい2018年問題による少子化で学生が集まらず大学の経営が危機に陥るとか、その程度の回答が精一杯ではないかと思うのです。大学の大衆化により学生の質が下がって教育の質が落ちる、という議論を持ち出す人もいるでしょうが、結局のところ定員を埋めるために入学水準を引き下げた結果にすぎません。
少子化が大学経営に与える影響はもちろん少なくはありませんし、それにより経営が傾く大学も増えてくるのではないかと思いますが、それが「危機」だとしたら、いったい誰にとっての危機なのでしょうか。自力で学生を集められないような大学が淘汰されることもなく国民の負担によって存続する、そちらの方がよほど危機的状況だと言えるのではないでしょうか。
下のグラフは平成元年以降の大学数の推移です。平成元年に499校だった大学数が、平成27年には779校にまで増加しています。なんとこの30年弱の期間に、280校も大学が増えているのです。
これだけ大学が増え続けたにも関わらず、私個人の肌感覚として、日本の教育水準が上がったとも思いませんし、大卒者に相応しい仕事や産業が新たに生まれたとも思いません。かえって大学生の学力低下の方が国民の耳目を集めているのではないでしょうか。
さて、話を元に戻します。「危機感」という言葉が闇雲に使われることの問題点は、現場の教職員が思考停止に陥り、学生確保のためにマーケティングを駆使し、受験生の奪い合いに没頭することです。本来は学生の教育に充てられるべき資金が、宣伝広告費として新聞広告や駅張りのポスターに使われます。夏の恒例行事となったオープンキャンパスにも、広告費を含めて多額の資金が支出されます。言うまでもなく、このような間違った「危機感」は、誰のためにもなりません。
先んじて危機感を持つことは大切なことではありますが、「危機感キャンペーン」に翻弄されて危機の中身に対して思考停止に陥ってしまっては、それがかえって新たな危機を生むのではないか、そうことを考えています。